院長ブログ

お待たせしました

[拙文]

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以前からブログでも公表していました、拙著「女性の病気と腹腔鏡―子宮筋腫・子宮内膜症・不妊治療がよくわかる」(かまくら春秋社)がアマゾンにもリストアップされました。

女性特有の子宮筋腫や子宮内膜症で不安をお持ちのかたには、ぜひお読みいただきたいと思います。

http://mijikaku.jp/?LN3EeX

2008年12月18日 01:27 [拙文]

新刊「女性の病気と腹腔鏡」

[拙文]

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「女性の病気と腹腔鏡」(かまくら春秋社)は以前12月1日に刊行されると予告いたしました。私の手元には届いておりますが、残念ながら、多忙のため行く時間がなく、書店に並んでいるかは確認していません。アマゾンにはのるはずで、チェックしてみましたが、12月10日に出版という情報が得られました。

「文はひとなり」と申しましたが、今回の本には今まで以上に自分の気持ちを表したつもりです。その意味で拙著ながら我が子のようで、皆様にどのように受け止められるか、不安と期待が入り混じった気持ちでおります。

写真は過日知人が出演している「エリザベート」(パプスブルク家の栄光と愛と死のロマン)を観劇したときに撮ったものです。よい芸を拝見するのは刺激になり、自分もよい手術や著作を頑張らなくとはと思うものです。

2008年12月05日 23:51 [拙文]

「あとがき」・「奥付」

[拙文]

「あとがき」は著書の終わりに書き添える言葉です。では「奥付」は出版物でいうとなんでしょう。巻末に、書名・著者・発行者・印刷者・出版年月日・定価などを記した部分が相当します。

今回の拙著「女性の病気と腹腔鏡」ではあとがきに大変力をいれました。本文に興味のないかたもあとがきだけはご覧くださいといってもいい位です。あとがきの最後の日付は11月21日つまり今日です。患者さんにとっては、自分のために書いてくれたかと思ってもらえる作品です。一般の方にも生殖の仕組みから深い理解のできる啓蒙本だと思います。ご期待ください。ちなみに奥付の出版日は12月1日ですから、もうあと10日に迫っています。

2008年11月21日 23:43 [拙文]

鉄門だより

[拙文]

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「鉄門だより」は東大医学部の同窓会誌といっていいでしょう。教授退任にあたって挨拶文を寄稿しました。拙文で長文ですが、だより編集長の許諾を得て一部を転載します。左の絵は退任にあたり医学部から贈呈頂いた「赤門」です。 

教授退任の挨拶

 私が東大理科三類に入学したのは昭和45年であります。70年安保の年であり、駒場周辺にも機動隊が常駐しているような状況でした。出身は埼玉県秩父市で、余談ですが、電車は1時間に一本あるかないかの山奥の町でした。上京した私は、渋谷駅に立つと、山手線の電車が発車してまだ最後尾が見えるうちに、次の電車が入ってくる様にカルチャーショックを受けるたものでした。学生時代は軟式テニス部、スキー部、スケート部、ゴルフ部、癌の会などに加わり、青春を謳歌しました。当時の先輩、後輩は皆立派になられていますが、今でも学生時代と変わらず気兼ねなく付き合うことができるのも鉄門の絆のお蔭様です。

 昭和51年に卒業し、故坂元正一先生(昭和25年)が主宰する産科婦人科学教室にいれて頂きました。当時から既に、多忙で人手不足が叫ばれていた産科婦人科でしたが、出産や手術に明け暮れ楽しい研修生活を送らせてもらいました。駆け出しのうちにMEの大家穂垣正暢(昭和35年)のおられる都立大塚病院、手術の名人菅生元康先生(昭和45年)の長野日赤で指導を受けたことが現在の自分の臨床を支えてくれています。まことに先達はあらまほしきことで、若い会員の方々もぜひ鉄門の先生方のところで研修する機会がありましたらぜひ生かしてください。

 研究生活も大勢の鉄門先輩方のご指導ご鞭撻によって大変充実しており、この場をかりて厚く御礼申し上げます。最初の研究テーマは卵子や初期胚の代謝でしたが、研究の手ほどきは、佐藤和雄産科婦人科講師(昭和36年)、加藤尚彦脳研生化学助教授(昭和36年)から頂きました。胎児診断への応用では小児科の鈴木義之先生にもご指導頂きました。その後故水野正彦教授(昭和31年)のご推挙で米国NIH留学の機会を頂けたのも幸いでした。EGFの生殖機能への影響を研究し、成果はサイエンス誌等に掲載され、研究に弾みがついたと思い返されます。これらをベースに内分泌撹乱物質(環境ホルモン)研究にも参加してまいりました。研究のきっかけは当時厚生省から環境庁に出向していた鉄門同級生中島正治元局長であり、ご指導頂いた環境研究所の遠山千春先生が疾患生命工学センターに着任されたのもご縁の深さを感じます。環境ホルモンは人類の未来に大きな影響をもたらすものと思慮されます。鉄門の皆様が研究に参加され、ネットワークができたら素晴らしいことだと思います。

 臨床面では、平成4年当時新任であった武谷雄二教授(昭和48年)より腹腔鏡下手術の導入をお任せ頂いたことが大きな転機でありました。新しい術式を開発し、適応範囲を広げ、患者さんに感謝される毎日は医者としての最高の幸せです。目白台の分院産婦人科川名尚教授(昭和38年)の後任に就任させて頂いて後は、分院においてほとんど全ての良性疾患は内視鏡手術で治療しました。現在は日本産科婦人科内視鏡学会の理事長と同時にアジアパシフィック婦人科内視鏡学会の理事長も勤め、国内のみならず、アジアパシフィック地域における内視鏡手術の普及に努めようとしております。

 東大在職中あるいは産婦人科医として最も記憶に強く残っておりますのは、東宮職御用掛として、雅子妃殿下の愛子内親王ご出産に立ち会ったことです。産婦人科のみならず、鉄門の皆様の幅広いご支援を頂き、勤めを果たすことができました。特に花岡一雄教授(昭和46年)、五十嵐隆教授(昭和53年)には大変ご足労をお掛けした。お世話になった皆様に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 国際医療福祉大学大学院転出にあたっては、開原成允大学院長(昭和36年)、金澤一郎副学院長(昭和42年)を初め、鉄門の皆様のご指導を賜りました。その関連病院である山王病院では院長職という新しい仕事にも取り組みますが、一般外来や生殖補助医療、腹腔鏡下手術、妊娠や出産の現場でも患者さんをみていきたいと思います。鉄門の皆様と山王病院あるいは国際医療福祉大学で一緒に仕事ができることがあれば幸いに存じます。また地域医療の担い手でもありますので、患者さんをご紹介頂ければ嬉しくお待ちしております。ちなみに山王病院リプロダクションセンターは土日も開いており、私も月月火水木金金で頑張っております。

2008年05月24日 13:31 [拙文]

柳色あらたなり

[拙文]

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知人から、かまくら春秋社(伊藤玄二郎代表)「星座」のリレー連載『弘法筆を選ぶ』へ投稿依頼を受けました。文筆で鳴らす方々が、こだわりのものや思い出、一品に寄せる愛情を綴るものらしく、産婦人科医の私が参加するのは如何かとも考えましたが、思いつくままに以下を書き記しました。長文ですが、編集部のご了解のもと転記します。

柳色新たなり

今から四十年以上前、高校生時代には文学青年でもないのに、漢文や古文はよく諳んじていました。「明けぬれば福原の内裏に火をかけて」の平家物語や、「石炭をばはや積み果てつ」で始まる森鴎外の舞姫も得意なものの一つでした。

その後尊敬する鴎外先生も学ばれた東京大学医学部に入学、学生時代は鴎外全集を読み漁るなどの時間もありました。卒業して、当時から多忙で人手不足が叫ばれていた産科婦人科に入局し、出産や手術に明け暮れるうちに、すっかり文学からご無沙汰してしまいました。

医学も日進月歩で、婦人科の世界では腹腔鏡という内視鏡を使った手術が開発され、普及しつつあります。私は専門学会の理事長という立場で、「弘法筆を選ぶ」というわけではありませんが、鉗子や電気メスを選ぶことは日常の業務としているところであります。

今日ご紹介するのは、腹腔鏡のご縁で、中国子宮内膜症サミットという医学系の会議に招かれ子宮内膜症の腹腔鏡治療の講演のため、敦煌を訪れた時の話です。敦煌といえば、井上靖氏の文学作品でよく知られていますが、成田から北京、西安と飛行機を乗り継ぐ遥かな西域です。主催者の方がせっかくの機会だから中国の歴史的史跡である陽関を案内するといってくださったのです。現場主義、現地主義の私としてはこのお申し出を有難くお受けしました。

敦煌からさらに西に沙漠の中を一時間半ほど走ると陽関に到着します。そこには秦や漢の時代の狼煙台等の遺跡が点々とするなか、大きな人物像と石碑をみつけました。近づいてみると人物は王維で、西に向かって両手をひろげていました。石碑には「漢文」の時間で懐かしい「元二の安西に使いするを送る」ではありませんか。つい嬉しくなって撮ってもらったのが左の写真です。

渭城の朝雨 軽塵をうるおし

客舎清清 柳色新たなり

君に勧む更に盡くせ一杯の酒

西の方陽関を出づれば故人無からん

別れの詩として、日本でも有名で産婦人科医の私が皆様に解説するのは失礼でしょう。「陽関三畳」といういわれは、最後の一行を三度繰り返すというのもいうまでもないことです。中国人の案内人も繰り返しを知っていましたから、慣わしそのものが中国伝来なのでしょう。

私の思い出を、お話させて頂ければ、四十年前の埼玉県立熊谷高校の漢文の授業に遡ります。漢文の教師巣山先生は、「西の方陽関を出づれば故人無からん」に続き、「無からん、無からん、故人無からん、西の方陽関を出ずれば故人無からん」と朗々と私たち生徒に詠み聞かせてくれました。古ぼけた木製の教室、教壇、先生の抑揚のきいた表情、同級生の無邪気な反応、すべてが蘇ります。

王維の生きた紀元八世紀を思うと同時に、無限の未来に心を躍らせていた高校生時代、この漢詩にふれた時を思い、感慨深いものがありました。

人生には別離や節目がつきものです。私事ですが、この私も四十年近く学び勤めてきた東京大学医学部を辞して、四月から港区赤坂の山王病院に勤務いたします。惜別の思いは浅くありませんが、新天地では、生殖医療や腹腔鏡下手術で今まで以上に患者さんのために努力しようと思います。このような時に懐かしい「陽関三畳」に出会ったも神の声かもしれません。日々柳色新たなりの清々とした気持ちで生きていきたいと思います。

「星座45号」より転載

2008年04月30日 15:47 [拙文]

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